時は1990年代にさかのぼる。
40代だった母が受けた健康診断の血液検査で、医師から「肝臓の数値がおかしい」と指摘された。
精密検査のために紹介された大きな病院で、母は「原発性胆汁性肝硬変(PBC)」と診断される。国の指定する難病であり、原因がはっきりしない病気だ。
当時母はその病名を誰にも告げなかった。
父にさえ伝えていたかは曖昧で、なぜ隠していたのか今となっては知る術がない。
おそらく「別に体調も悪くないし、大した病気ではない」と軽く考えていたのかも知れない。
その病状(PBC)を告げられてから20年ほど経った「2011年11月14日」に初めての吐血。
母が62歳の時である。
当時、母は早朝5時から始まるアルバイトに就いていて。
驚くことに、吐血していた翌日も普段通りに出勤していたという、とんでもないエピソードがある。
我慢強いというよりも「病気を甘く考えていた」という方が正しいだろう。
後日、母に当時のことを尋ねると『そんな大事になるような病気とは思っていなかった』と語っていた。
楽観的な考えがあったからこそ、「治るだろう」と高を括り、誰にも言わなかったのかもしれない。
あるいは、周囲に心配をかけたくなかったのかもしれない。
どちらが本心だったのかは、今も分からない。
けれど、その「楽観主義」と「人への気遣い」は母の長所でもあり、私が好きな母の一面でもある。
初めての吐血と入院
さすがに吐血していただけに、体の不調が半端なかったようで、血を吐いた2日後にようやく病院へ行った。(しかし、2日も我慢するか・・・。我慢できるもんなのか?)
当然ながら診察後、そのまま入院。
診断名は「食道静脈瘤破裂」である。
当時の私は病名に対する知識が全くなかったのだが、後に調べてみると驚愕した。
「食道静脈瘤破裂」は、出血によってなくなる例も少なくないのだ。
思い返すと「よく生きてたな」と、背筋が凍るような出来事だった。
この吐血が、肝硬変の典型的な症状だという事もその時に調べて知った。
だが、医者からは肝硬変が原因ということは一言も告げられなかった。
術後とその後
手術は、内視鏡で破裂した血管を止める方法で無事成功。
はっきり言って、その当時の事をあまり覚えていません。
それほど深刻に考えていなかったのだろう。
そこが私も母も、考えが甘かったと言われればそうかもしれません。
この時から肝硬変という病気について真剣に向き合い、改善に向けて何かを行っていれば、のちに起こる2度目の吐血を防げたかもしれないと記事を書きながら後悔している。
それにしても、なぜ医者はその時に「原発性胆汁性肝硬変(PBC)」と診断書に記入しなかったのだろう。
今になって、その点に対する疑念が消えない。
腹水と利尿剤治療
手術から1ヶ月半後、2011年の12月末に腹水が貯まった状態で退院。こんな状態で退院させる病院に不信感が募っていた。
退院から1週間後、前かがみになるのも大変なほど腹水が貯まったため、急遽病院へ行くことにした。(やっぱり無理やん)
そのとき提示されたのは、利尿剤だけの治療法。「1週間、薬を飲みながら様子を見てほしい」と医師に言われた。
幸いにも利尿剤はよく効き、10日間ほどで腹回りが10㎝以上減少。腹水も減ったので大事に至ることは無かった。
もし、利尿剤が利かなかった場合はどうしようと、あたふたしていたことが当時の日記に書き記されていた。
薬の服用から12日後には、通常の体重と腹囲に戻り「利尿剤はもう必要ないだろう」と、母自らの判断でその日から薬の服用を止めることにした。
以降も腹水が再発することはなかった。
薬を飲まなくなったことで病院への足も遠のき、定期検診も受けることがなくなった。
そして、以前と何ら変わらない生活を5年間(2016年4月まで)過ごしていた。
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